武田家三代年表帖〈上巻〉その時、甲・信・越・相・駿・遠・三らは、 信虎甲斐統一~信玄の快進撃と無念の死 信玄vs謙信の12年戦争、真田家三代の計略、家康の台頭 [単行本]
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武田家三代年表帖〈上巻〉その時、甲・信・越・相・駿・遠・三らは、 信虎甲斐統一~信玄の快進撃と無念の死 信玄vs謙信の12年戦争、真田家三代の計略、家康の台頭 [単行本]

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武田家三代年表帖〈上巻〉その時、甲・信・越・相・駿・遠・三らは、 信虎甲斐統一~信玄の快進撃と無念の死 信玄vs謙信の12年戦争、真田家三代の計略、家康の台頭 の 商品概要

  • 要旨(「BOOK」データベースより)

    本年表帖は、戦国時代の武田信玄の活躍時代から西上途次の無念の死までの信玄中心の年表で、その頃、家臣として活躍した真田家三代も詳述しました。冒頭、「武田信玄、戦いの生涯」として、史実といわれる事柄を掲載しました。年表内の項目は、日本の中部から関東の一部を中心に、甲斐の信玄、越後の上杉謙信、信濃の国衆や真田幸隆・昌幸父子、相模の北条氏康・氏政父子、駿河・遠江の今川義元・氏真父子、三河の松平広忠・徳川家康父子ら戦国大名たちに関係する出来事を収録いたしました。また、大きな勢力をもち、入京と覇権を競った武田信玄と上杉謙信についても、大いに取り上げております。武田家三代、真田家三代の、その日、その時に何が起きていたのか?その周辺諸国、戦国大名たちは、何をしていたのか?
  • 目次

    西暦▼和暦 月日 出来事 掲載頁
    1532▼天文1 9月- 「武田氏第18代・武田信虎、事実上の甲斐統一を達成する」。 0001
    1533▼天文2 ― 武田太郎(のちの信玄)(1521~1573)、扇谷上杉朝興娘を、正室として娶る。 0004
    1534▼天文3 5月12日 「織田信長、生まれる」。吉法師(信長)(1534~1582)、生まれるという。 0005
    11月- 武田太郎(のちの信玄)妻・扇谷上杉氏、懐胎して没する。 0007
    1535▼天文4 6月5日 甲斐の守護大名・武田信虎、今川氏の駿河に侵攻する。 0008
    9月17日 武田信虎(1494~1574)と諏訪碧雲斎(頼満)(1473~1540)、和睦が成立する。 0018
    12月3日 家督相続から10余年で三河をほぼ統一した三河安祥城および岡崎城主・松平清康(家康の祖父)(1511~1535)、再び、1万余りの大軍で尾張に侵攻開始。 0022
    12月5日 松平清康、清洲城の支城・守山城攻め陣中で、家臣阿部弥七郎正豊に村正刀で暗殺される。主を失った三河勢は岡崎に撤退。俗に言う「守山崩れ」である。享年25。 0024
    12月28日 息子の罪の償いのため千松丸(仙千代)を護る阿部定吉(1505~1549)は、松平仙千代広忠(家康の父)12歳(1526~1549)を伴い、岡崎城を脱出。 0027
    1536▼天文5 1月17日 武田信虎嫡男・太郎(後の晴信・信玄)(16歳)、従五位下左京大夫に任ぜられる。 0029
    3月- この月、武田信虎嫡男・太郎、元服し将軍足利義晴の偏諱をうけて晴信(後の信玄)と名乗る。 0032
    3月17日 駿河国の今川氏当主氏輝(24歳)(1513~1536)、弟彦五郎(?~1536)と共に、突然、没。死亡月日は異説あり。 0034
    5月25日 「花倉の乱―5月25日~6月10日」。▼駿河今川家中で御家騒動が起きる。太原雪斎(1496~1555)ら重臣たちは、弟栴岳承芳(氏親三男)(18歳)を還俗させ、京の足利将軍から偏諱を賜り、「義元」と名乗らせ後継にしようとする。外祖父福島上総介は、義元の異母兄弟・遍照院住職良真(玄広恵探)を擁立し挙兵、内戦線状態となる。 0038
    6月14日 「花倉の乱」、終結。▼玄広恵探(1517~1536)、花倉城を攻められ、瀬戸谷の普門寺で自刃。この乱で、相模の北条氏の支援も得て、今川義元(1519~1560)が勝利し、家督を継ぐ。 0044
    7月- この月、武田信虎、今川義元の斡旋により、公家三条公頼の次女(三条夫人)(1521?~1570)を嫡男晴信(信玄)(1521~1573)の正妻に迎える。0046
    7月27日 「天文法華の乱」。▼比叡山延暦寺(天台宗)僧兵と同調する近江・六角氏の軍勢、四条口から京へ乱入、各所に放火。翌日まで持った本國寺を含め洛中の法華宗(日蓮宗)の21本山が全て炎上する。 0047
    8月3日 越後守護代長尾為景(1489?~1543)、家督を長男晴景(1509~1553)に譲る。晴景、守護代となり、守護・上杉定実(1478?~1550)と争う。▼■二男虎千代(景虎、上杉謙信)(7歳)(1530~1578)は、林泉寺に入り、天室光育(1470~1563)に学ぶ。 0048
    11月- 武田晴信(信玄)、信濃佐久郡の戦いに初陣。 0058
    1537▼天文6 2月6日 木下藤吉郎(後の秀吉)(1537~1598)、尾張国愛智郡中村に誕生。 0062
    2月10日 「甲駿同盟成立」。甲斐武田信虎は、長女・定恵院(信玄の姉)19歳(1519~1550)を、この日、駿河今川義元19歳に嫁がせ今川・武田の同盟成立。 0063
    2月20日 「第一次河東一乱―天文6年(1537)2月20日~天文8年(1539)7月8日」、はじまる。武田・今川の同盟に反発した相模の北条氏綱は出陣。駿河に出兵して興津を焼く。 0064
    6月25日 松平内膳正信定と和議した、元服前の松平広忠(家康の父)(1526~1549)、駿府での人質生活から解放され三河岡崎城に帰る。 0085
    7月20日 武蔵国松山城(埼玉県比企郡吉見町)、落城。▼■武蔵国における北条氏の優位性は決定的となる。 0090
    12月9日 松平広忠(家康の父)12歳、元服、東条吉良持広(清康の妹婿)(?~1539)、烏帽子親。 0094
    1538▼天文7 5月- 北条氏綱(1487~1541)と武田信虎(1494~1574)が、和睦する。 0101
    ― この年、武田晴信(信玄)の嫡男太郎(のちの義信)(1538~1567)、生まれる。 0108
    1539▼天文8 7月8日 「第一次河東一乱―天文6年(1537)2月20日~天文8年(1539)7月8日」終結。「蒲原城の戦い」。 0109
    1540▼天文9 6月6日 「第一次安城合戦」。信長父・織田信秀(古渡城主)(1510?~1551)、3千の兵を率いて三河に侵攻、弱体化した松平氏本拠・安祥城を攻め落とす。 0117
    11月29日 「武田氏と諏訪氏、同盟」。この日、同盟関係の証として、武田信虎の三女禰々(1528~1543)が諏訪頼重(1516~1542)に嫁ぐ。 0119
    1541▼天文10 5月23日 「海野平の戦い(神川合戦)、海野氏敗北―小県郡の大半は、信濃国北部の豪族・村上義清の領土となる」。 0126
    6月14日 「武田信虎追放クーデター」。武田晴信(信玄)、板垣信方(1489?~1548)ら重臣と謀る。武田信虎、信濃から凱旋すると、娘婿の今川義元の元を訪ねるため、この日、甲府を出発。晴信、直ちに甲斐と駿河の交通を閉じ、その帰国を阻む。 0129
    6月28日 武田晴信(信玄)、家督相続の儀式を執行し、甲斐守護職を嗣ぎ大膳大夫を称す。 0132
    7月19日 北条氏第2代当主・北条氏綱(1487~1541)病没。享年55。3代目に嫡男・氏康(1515~1571)が家督を継ぐ。 0139
    ― 松平広忠(徳川家康の父)14歳(1526~1549)、刈屋城主水野忠政娘・於大の方(のちの伝通院)(1528~1602)を娶る。 0141
    1542▼天文11 6月29日 「武田氏の諏訪侵攻」。武田晴信、諏訪郡に入る。 0150
    7月4日 「信玄の諏訪領支配始まる」。 0154
    7月21日 「諏訪惣領家滅亡」。甲斐守護武田晴信(信玄)、諏訪頼重(1516~1542)、弟頼高(1528~1542)を東光寺で自害させる。 0159
    8月10日 「第一次小豆坂の戦い」。織田軍が今川軍に勝利という。 0160
    10月7日 「晴信、諏訪を手に入れる」。諏訪西方衆が、武田に降伏する。 0168
    12月15日 武田晴信(信玄)(1521~1573)、信州爾津神平の息女(実は諏訪頼重の娘、諏訪御寮人)(1530?~1555)を側室とするとされる。異説あり。 0172
    1542▼天文11 12月26日 「家康、生まれる」。竹千代(徳川家康)(1543~1616)、岡崎城主松平広忠と正室於大(後の伝通院)の間に、嫡男として生まれる。 0174
    1543▼天文12 1月- 松平宗家7代清康没後、広忠伯父の松平蔵人信孝(?~1548)は、岩津松平親長と信孝の弟康孝(?~1542)の旧領地を横領し、松平宗家を脅かす存在となる。信孝が駿河へ出向いている隙に、広忠家臣等は信孝の所領を奪い取った。▼駿河から帰った信孝は、松平氏を離反し、尾張織田氏を頼った。 0177
    8月15日 虎千代(上杉謙信)(1530~1578)、兄晴景の命により、林泉寺より呼び戻され、元服して「長尾景虎」と名乗り、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで翌年、中越の長尾家領統治のため栃尾城に入る。 0187
    8月27日 種子島に鉄砲伝来。 0188
    9月9日 武田晴信(信玄)、長窪城の大井貞隆討伐のため甲府を出陣。▼■諏訪領を確保した武田氏はさらに信濃侵攻を本格化させる。 0190
    1544▼天文13 9月- 於大の方(家康母、後の伝通院)(17歳)は、兄の刈屋城主・水野信元がこの月、織田方と誼を通じたため、今川義元の援助で国を保ってきた岡崎城主松平広忠(1526~1549)より、離別させられて刈屋城へ帰る。▼■以後、竹千代(家康)(1543~1616)は、祖父松平清康の妹、於久の方(?~1561)に養育される。家康を6歳で人質に出されるまでの3年間養育したという。 0200
    12月- 信濃侵攻を企図した武田氏は、両上杉氏を当面の敵としていた相模の北条氏康と和睦を結び、ここに甲相同盟(第一次)が成立。 0215
    1545▼天文14 5月22日 甲相駿三者同盟により北条・今川の援兵、武田氏の伊那箕輪攻城に参陣。駿河松川から今川軍の援軍3百が、武田軍と合流。 0229
    6月10日 「伊那郡の北半分が武田氏の支配下に入る」。箕輪城(福与城)が、ついに陥ち、伊那の藤沢頼親は、武田晴信(信玄)の講和を受け入れる。 0233
    7月24日 「第二次河東一乱―天文14年(1545)7月24日~10月29日」、はじまる。▼駿河の和(駿相同盟)破れる。今川義元、軍勢を率いて善得寺に布陣する。 0239
    8月11日 駿河の今川義元と甲斐の武田晴信(信玄)が、会見という。▼■甲駿同盟が成立、祝宴が催される。 0241
    9月20日 「第二次安城合戦―清田畷の戦い」。▼松平広忠(家康父)、安祥城(松平氏本拠)奪回を謀り、三河清田畷で織田信秀と戦うが、織田勢の挟撃に遭い敗走。▼■この頃、松平氏の地位は完全に凋落し、今川氏への依存はますます強くなることになる。矢作川以北の西三河は、織田信秀に帰し、勢力圏は東三河に及ぶ。 0252
    10月11日 駒井高白斎・板垣信方・向山又七郎が連判状を作成し、北条氏康家臣・桑原九郎右衛門盛正に届ける。▼■今川・北条双方との同盟関係にある武田氏は両者の調停に乗り出した。 0256
    10月29日 「第二次河東一乱―天文14年(1545)7月24日~10月29日」、終結。▼今川・北条の和睦が成立する。武田晴信(信玄)が仲介役として双方の間に割って入り、停戦が成立。今川家重臣・太原雪斎(1496~1555)を交えて誓詞を交換。 0263
    ― この年、松平広忠(家康父)(1526~1549)、田原城の戸田康光(?~1547)の娘・真喜姫(田原御前)(?~1571)と再婚。 0268
    1546▼天文15 ― この年、四郎(後の武田勝頼)(1546~1582)、誕生。▼父は武田晴信(信玄)(1521~1573)。母は信玄側室の諏訪御料人(諏訪頼重の娘)(1530?~1555)。勝頼正室は、織田信長の養女・遠山夫人。 0269
    1546▼天文15 2月28日 長尾景虎(謙信)(1530~1578)、越後守護上杉定実の命令により黒滝城(新潟県西蒲原郡弥彦村)に出陣、再び黒滝城に籠り反乱を起こした黒田秀忠以下一族をことごとく切腹させる。これを契機に景虎を越後守護代にしようとする運動が起こる。 0270
    4月20日 「河越夜戦―扇谷上杉氏、滅亡」。▼北条軍8千が、河越城(埼玉県川越市)を包囲し、城を取り巻く関東管領山内上杉憲政(1523~1579)・扇谷上杉朝定(1525~1546)・古河公方足利晴氏(1508~1560)の連合軍を破る。扇谷上杉朝定、戦死。年月日、内容とも異説多い。 0274
    5月3日 「武田氏、佐久郡侵攻を開始」。武田晴信(信玄)、佐久郡内山城攻めに、甲府出陣。海ノ口まで進む。 0275
    10月16日 これより先、今川義元、太原崇孚雪斎(1496~1555)の指揮下で三河侵攻を開始する。この日、牧野保成、所領の不入などを今川氏に求める 0293
    12月- 村上義清(1501~1573)、須田満親(1526~1598)を大将にして佐久郡の海尻城(長野県南佐久郡南牧村)を攻め落とす。しかし、武田方・真田幸隆(幸綱)(1513~1574)が海尻城を再度奪回する。 0297
    1547▼天文16 ― この年、真田幸隆三男・昌幸(幸村父)(1547~1611)、生まれる。母は河原隆正(1509~1578)の妹。 0298
    6月1日 武田晴信(信玄)、その家法「甲州法度之次第」26ヶ条を定め、甲斐・信濃に公布する。(検使・棟別銭・欠落逃散禁止・人返し等々の規定を含む)。 0307
    7月- 「第三次安城合戦」。▼松平広忠(家康の父)(1526~1549)、この月、広忠伯父の松平蔵人信孝(?~1548)と矢作川の河原で戦い敗北する。 0310
    閏7月24日 「小田井原の戦い」、はじまる。▼武田勢、佐久で唯一抵抗する志賀城攻めを開始。城主・笠原新三郎清繁は、上野国平井城に拠っていた関東管領上杉憲政(1523~1579)に救援を要請し、西上野菅原城城主・高田憲頼の援軍を得て、武田氏に対して抵抗、包囲は長引く。▼■上杉憲政は権威回復のため、箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)主の長野業政らの諫言に応じず出兵した。 0316
    8月2日 「6歳の竹千代(家康)を今川家の人質として駿河に送る」。▼松平広忠は今川氏に援護・援軍を依頼し、実子松平竹千代(家康)(1543~1616)を人質としてさしだそうとした。舟で西郡(蒲郡)から大津(豊橋市老津)に渡り、陸路駿府に向かう予定のところ、田原城の戸田康光(宗光)・尭光父子が舟で行く方が安全と勧め、竹千代一行を攻撃して奪い織田信秀に送る。 0319
    8月6日 「小田井原の戦い」武田軍、勝利。小田井原で、関東管領上杉軍を撃破。▼■関東諸将は上杉憲政を見限って続々と北条に投降・帰参することとなる。 0320
    8月11日 「晴信(信玄)、佐久郡の平定を完了」。 0322
    9月5日 「田原戸田氏、滅亡」。▼今川義元・松平広忠(家康の父)、戸田康光(宗光)(?~1547)の三河国田原城を攻撃し落城させる。▼■これにより今川義元は、三河全域に勢力を有することとなる。 0329
    10月- 「信長、初陣」。▼この月、織田信長(14歳)(1534~1582)、初陣。三河の吉良大浜城に進出の今川勢を攻撃。 0333
    1548▼天文17 1月8日 村上義清(1501~1573)、佐久郡へ出陣。佐久郡は村上義清の勢力圏内でもあり、ここに武田・村上両者は遂に直接衝突するに及ぶこととなる。 0337
    1548▼天文17 2月14日 「上田原の戦い―信玄は武田家の当主となって初めて敗戦の苦渋を味わう」。▼晴信(信玄)、上田原で村上義清と戦い敗れる。 0343
    3月19日 「第二次小豆坂の戦い」。小豆坂(愛知県岡崎市)にて今川軍が織田軍に勝利。▼■今川義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が三河に侵攻してくるが、今川軍は織田軍に大勝し、織田家の勢力を事実上、三河から駆逐した。 0351
    7月19日 「塩尻峠の戦い」。甲斐守護・武田晴信(信玄)、信濃国守護・小笠原長時(1514~1583)を急襲し大勝する。 0369
    12月30日 長尾景虎(上杉謙信)(1530~1578)、家督を継ぐ。▼越後守護・上杉定実(1478?~1550)の調停のもと、長尾晴景(謙信の兄)(1509~1553)は、景虎(謙信)を養子とした上で家督を譲って隠退する。景虎は、栃尾城(新潟県長岡市栃尾町)より長尾氏の本拠である春日山城(新潟県上越市中屋敷字春日山)に入り、19歳で家督を相続し、越後守護代となる。 0386
    1549▼天文18 3月10日 「松平広忠(家康父)、没」。岡崎松平家当主広忠(家康父)(1526~1549)、浅井某又は蜂屋某に刺殺される。広忠の死後は今川勢が岡崎城に入り、主君を失った松平家中は今川氏の指揮下に入る。 0392
    3月18日 「第四次安城合戦―3月18日~11月8日」、はじまる。▼三河国人衆が織田氏に寝返ることを恐れた、今川義元・雪斎和尚(太原祟孚)の軍勢が、岡崎松平勢と共に、
  • 出版社からのコメント

    戦国時代の武田信玄の活躍時代から西上途次の無念の死までの各部将たちの動きが一覧でわかる年表。収録は1532年~1573年
  • 内容紹介

    本年表帖は、戦国時代の武田信玄の活躍時代から西上途次の無念の死までの信玄中心の年表で、その頃、家臣として活躍した真田家三代も詳述しました。
    冒頭、「武田信玄、戦いの生涯」として、史実といわれる事柄を掲載しました。
     年表内の項目は、日本の中部から関東の一部を中心に、甲斐の信玄、越後の上杉謙信、信濃の国衆や真田幸隆・昌幸父子、相模の北条氏康・氏政父子、駿河・遠江の今川義元・氏真父子、三河の松平広忠・徳川家康父子ら戦国大名たちに関係する出来事を収録いたしました。
    また、大きな勢力をもち、入京と覇権を競った武田信玄と上杉謙信についても、大いに取り上げております。
     武田家三代、真田家三代の、その日、その時に何が起きていたのか? その周辺諸国、戦国大名たちは、何をしていたのか?
     

武田家三代年表帖〈上巻〉その時、甲・信・越・相・駿・遠・三らは、 信虎甲斐統一~信玄の快進撃と無念の死 信玄vs謙信の12年戦争、真田家三代の計略、家康の台頭 の商品スペック

商品仕様
出版社名:ユニプラン ※出版地:京都
著者名:ユニプラン編集部(編集)
発行年月日:2016/06/01
ISBN-10:4897043743
ISBN-13:9784897043746
判型:A5
対象:一般
発行形態:単行本
内容:日本歴史
言語:日本語
ページ数:205ページ
縦:21cm
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