関ヶ原合戦全史1582-1615 [単行本]
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関ヶ原合戦全史1582-1615 [単行本]

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関ヶ原合戦全史1582-1615 [単行本] の 商品概要

  • 要旨(「BOOK」データベースより)

    関ヶ原合戦(一六〇〇年)はわずか半日で終結した戦いだが、この戦の遠因は、本能寺の変(一五八二年)を経て秀吉時代になって以降の、独裁体制のひずみと諸将間の確執、各大名家の家中問題にあった。本書では、秀吉の晩年から、五大老五奉行による政権運営時代、会津征討、関ヶ原本戦、東北・九州の戦い、家康による戦後処理、豊臣家滅亡による「関ヶ原体制」の終焉(一六一五年)までの実態を、良質な一次史料と最新研究を用いて解明。後世の編纂物などの二次史料に影響されがちな関ヶ原合戦史を訂正し、今語りうる史実の全体像をつまびらかにする。
  • 目次

    はじめに

    巻頭図-1 関ヶ原合戦前(1590年代)の主な大名の配置(概図)
    巻頭図-2 近世の主な地名・交通路(陸路)
    巻頭図-3 東西両軍関係図(概図)


    第一章 秀吉の晩年・没後の政治状況
    本能寺の変以後の秀吉の履歴
    秀吉の致命的弱点
    秀吉の遺言
    秀吉ファミリーの一員、宇喜多秀家への期待
    秀吉の最期
    通説としての五大老と五奉行
    五「大老」、五「奉行」の意味
    秀吉への起請文に見る五大老の「原型」
    秀吉が定めた、五大老連署による「五つの掟」
    五大老の職務
    五奉行の職務
    五奉行に屈服した家康
    五奉行側に接近する毛利輝元

    第二章 七将による石田三成への襲撃
    前田利家の死と、七将による石田三成襲撃事件
    七将のメンバーと三成への遺恨
    朝鮮出兵をめぐる加藤清正と小西行長の対立
    黒田長政・蜂須賀家政の、三成への恨み
    三成への遺恨を募らせる朝鮮出陣組の武将たち
    日記類に見る三成襲撃事件の経過
    襲撃された三成は家康邸には逃げ込んではいない
    事件の真相は「襲撃」ではなく「訴訟」
    三成の敗訴により苦境に立たされた輝元
    その後の三成と家康の意外な関係
    襲撃事件を機に政権中枢に躍り出た家康
    書状のやり取りによる「家康与党」の形成
    固い絆を結ぶ黒田長政と吉川広家
     
    第三章 諸大名が抱える家中問題
    家臣団の統制に苦しむ大名たち
    毛利家一門の状況
    吉川元春・元長父子の相次ぐ死
    実子のいなかった小早川隆景の死と、養子・秀秋
    毛利宗家の後継者問題と秀吉の影
    輝元の嫡子・秀就誕生がもたらした毛利一門の危機
    秀吉の寵を得ていた毛利秀元が輝元に出した起請文
    輝元と五奉行の結託
    父と兄を亡くした吉川広家の、黒田家・家康とのつながり
    島津氏の、鎌倉期以来の九州での覇権争い
    秀吉による九州征伐と、島津氏領国の分割
    兄弟不和や一揆で弱体化する島津氏
    島津忠恒(家久)による重臣・伊集院幸侃の暗殺
    幸侃の子・忠真による庄内の乱、勃発
    家康の介入を許す島津氏
    宇喜多氏の来歴と「宇喜多騒動」の勃発
    日記に見る宇喜多騒動の概要
    宇喜多家を辞去した秀家の側近を襲撃したのは誰か
    騒動の背景にあった宇喜多家の過酷な検地
    騒動以前からあった宇喜多家内部の確執
    宇喜多家が抱える「国衆型家臣」と「家中型家臣」
    家中型家臣を求めた秀家
    宇喜多家中への家康の関与
    家康に起請文を捧げる秀家と、前田利家の失脚

    第四章 動揺する上杉氏
    東北の押さえとして会津へ移封
    直江兼続を中心とした領国整備の推進
    景勝の京から会津への帰国
    「家康暗殺計画」と家康の大坂城への転居
    暗殺計画の首謀者とされた前田利長への追及
    景勝による城の新築・修築を警戒する家康
    上杉家を出奔した重臣・藤田信吉の来歴
    家康のもとに走った信吉
    信吉はなぜ出奔したのか
    景勝に代わり越後に移った堀秀治の苦境
    堀氏の家老・堀直政による家康への会津報告
    家康を警戒する景勝の居城移転計画
    景勝に冷静に対応した家康
    家康の腹心・西笑承兌とは
    西笑承兌が直江兼続に宛てた書状
    兼続と親しかった承兌
    承兌が上杉氏に提出を求めた「霊社之起請文」とは
    「霊社之起請文」に見る家康の真意

    第五章 「直江状」の真偽をめぐって
    西笑承兌への返書「直江状」が抱える多くの問題
    「直江状」の追而書(追伸)を読む
    「直江状」の全文意訳
    戦国時代の書状を読み解くための留意点
    「直江状」への否定的見解
    「直江状」への肯定的見解①
    「直江状」への肯定的見解②
    「直江状」への肯定的見解③
    「直江状」は「家康への大胆不敵な挑戦状」ではない
    「直江状」の不自然な文言①
    「直江状」の不自然な文言②
    「直江状」と西笑承兌書状の対応関係
    景勝への上洛要請と、家康の朝鮮再出兵計画
    従来説による、承兌書状と「直江状」の発信日付
    承兌書状と「直江状」の発信日付を検証する
    景勝が上洛しなかった真意
    「直江状」は完全なる偽文書か
    承兌書状の発給から会津征伐までの時系列的整理
    「直江状」の真偽をめぐる二つの可能性
     
    第六章 家康の会津征討
    景勝と三成による「家康挟み撃ち」の真偽
    三成書状に見る「越後口での攪乱作戦」の虚実
    景勝と三成による事前盟約はなかった
    真田昌幸を頼り上杉氏への接近を図る三成
    家康を諌めたとされる「三中老」とは何か
    会津征討を諌める三中老による連署状
    三中老の連署状の不審点
    家康は「景勝は上洛しない」という前提で軍備していた
    家康が会津征討を決定するまで
    会津征討計画の内容
    伏見を発つ家康
    家康の江戸までの路程と軍令の制定
    小山へ向かう家康
    三成、決起す──「内府ちがひの条々」の発出
    西軍の「二大老・四奉行」体制、開始
    「三奉行と輝元は、三成や吉継に加担せず」との情報
    輝元の積極果敢な反家康行動
    ようやく西軍の決起を知った家康
    小山評定での福島正則と山内一豊
    小山評定はあったのか、なかったのか
    慶長五年七月下旬~八月上旬の黒田長政の動向
    「小山評定はなかった」説の根拠とそれへの反論
    福島正則宛の家康書状の日付はいつか
    慶長五年七月二十五日に家康は小山にいたか
    家康の軍事指揮権の範囲
    脚色された小山評定と、会津征討のメンバー
    「東軍」「西軍」という呼称をめぐる見解
    家康は私心から三成らと対立したのではない
    西軍方の諸将の危機感を煽った家康の行為
     
    第七章 関ヶ原合戦への道のり
    家康・秀忠それぞれの進軍ルート
    軍隊を構成する基本単位「備」とは 
    兵站を担当する「小荷駄隊」と軍法
    家康の軍勢の構成と質
    秀忠の軍勢の構成と質
    家康・秀忠両軍の「譜代家臣」の人数
    家康・秀忠両軍の「備の質」の比較
    京都での開戦──西軍による伏見城の包囲
    『島津家譜』の矛盾と、伏見城を守備した鳥居元忠の忠節
    小早川秀秋が西軍に与するまでの経緯
    家康に心を寄せていた秀秋
    西軍についた脇坂安治・安元父子の苦悩
    毛利氏による阿波占拠
    細川幽斎の籠る丹後田辺城での戦い
    後陽成天皇による幽斎の助命嘆願
    幽斎が西軍の赤松広秀に宛てた書状
    広秀の返書と田辺城戦に臨んだ西軍諸将の本心
    毛利氏の伊予侵攻作戦
    伊予侵攻の実行
    加藤嘉明方の毛利氏奇襲の実際
    膨大な書状で多数派工作をする家康
    石田三成の本格始動と勝利への執念
    交通の要衝・伊勢を制圧すべく東進する西軍
    安濃津城への西軍襲来に備える伊勢の諸将
    安濃津城の戦いと吉川広家の参戦
    北陸での前田利長の進撃と大谷吉継の逆襲
    西軍に与した岐阜城主・織田秀信
    岐阜に進軍する福島正則隊と池田輝政隊
    岐阜界隈で織田軍を撃破する東軍
    岐阜城の落城
    京極高次の籠る大津城での戦い
    大津城の落城

    第八章 関ヶ原合戦の開戦
    大垣周辺での決戦を意識していた三成
    家康の江戸進発
    大谷吉継が真田父子に宛てた書状
    秀忠の進軍と上田城攻撃
    秀忠の関ヶ原遅参の背景
    決戦前日の衝突、杭瀬川の戦い
    決戦前日の東軍の軍議と、家康・輝元の和睦
    関ヶ原での東西両軍の布陣
    なぜ関ヶ原という場所だったのか
    井伊直政と松平忠吉の「抜け駆け」による開戦
    新井白石の「松平忠吉=家康の名代」説
    関ヶ原に至るまでの忠吉の行軍ルート
    忠吉が先鋒を務めた理由
    抜け駆け説への疑問
    家康書状から見る、直政と忠吉の抜け駆けの真相
    福島軍と宇喜多軍の激闘
    小早川秀秋に向けられた家康の「問鉄砲」の真偽
    やむなく西軍についていた秀秋
    決戦前日に秀秋に示された東西両軍からの起請文
    秀秋を東軍に引き入れた黒田長政の尽力
    松尾山に着陣した秀秋の逡巡
    東軍に寝返った諸将への戦後の処遇
    黒田長政とその家臣たちの奮戦
    三成の参謀・島清興(左近)の最期
    西軍壊滅の背景


    第九章 東北の戦い
    伊達政宗、上杉方の白石城を攻撃
    家康に会津方面への出陣要請をする政宗
    家康・秀忠が政宗に宛てた書状
    直江兼続による越後侵攻作戦と上杉遺民一揆
    兼続は遺民一揆に期待をかけていたのか
    兼続は、三成誅伐に向かう家康を討つべしと進言したか
    家康より政宗を警戒していた兼続
    家康が政宗に与えた「百万石のお墨付き」
    敵に四方を囲まれた上杉方の備え
    上杉氏による最上氏攻めの開始
    最上領・長谷堂での戦い
    最上勢の援軍として伊達氏参戦
    兼継書状「上方散々ニ罷成候由」は西軍敗北の意味か
    「上方散々ニ罷成候由」の別の解釈
    景勝、政宗それぞれに西軍敗報が届いた時期
     
    第十章 九州の戦い
    西軍勢が多くを占めた九州
    復権した大友吉統の履歴
    吉統の豊後入部のいきさつ
    黒田孝高が家康に要望した「九州の切り取り自由」
    加藤清正と黒田孝高の強固な協力関係
    吉統を東軍に引き入れようとする孝高
    吉統入部で窮地に立たされた杵築城主・松井康之
    清正の援助で西軍への抗戦を決意した康之
    九州における東軍の生命線だった杵築城
    吉統の豊後上陸
    孝高の快進撃と吉統生け捕り
    孝高の驚嘆すべき進撃プラン
    九州平定を目論んでいた孝高と清正
    捕らわれた吉統のその後
    吉統の配流先の諸説と、大友氏の滅亡
    孝高による安岐城・富来城攻め
    怒濤の勢いで進撃を続ける孝高
    小西行景の宇土城を「はだか城」にする清正
    持ちこたえた行景と、島津氏・相良氏の動き
    島津氏以外の西軍勢力の降伏
    家康の薩摩への進軍計画
    島津氏のなりふり構わぬ弁明
    黒田長政の仲裁と薩摩侵攻の中止
    家康の決定に抗議する清正


    第十一章 戦後処理と大名配置
    島津惟新らの関ヶ原からの脱出劇℣」
    「捨て奸」による逃亡
    惟新らの複数説ある逃亡ルート
    苦難の末、薩摩に帰還
    家康による時間をかけた領知配分決め
    家康が「領知宛行状」を発給しなかった理由
    領知をめぐり大名の意向を事前確認
    豊臣系武将の西国への配置
    徳川一門・譜代への知行配分
    豊臣秀頼は「摂河泉の一大名」に没落したのか
    伊達政宗書状に見る秀頼の威光
    石田三成の最期
    安国寺恵瓊の最期
    スケープゴートにされた三成、恵瓊、小西行長
    所領安堵を懇望する毛利輝元
    輝元の大坂城西の丸退去
    家康への背信を暴露された輝元
    毛利氏の処遇に苦悩する黒田孝高・長政父子
    毛利氏への裁定下る
    幻となった「百万石のお墨付き」
    「お墨付き」が反故にされた背景
    問題視された政宗の和賀一揆扇動
    上杉氏の上洛と大減封
    宇喜多秀家の逃亡
    秀家、薩摩で匿われる
    秀家が滞在した大隅郡牛根郷
    助命を願う秀家
    島津氏による秀家の助命嘆願運動
    秀家、駿河国久能から、下田、八丈島へ
    八丈島への同行者
    秀家が暮らした八丈島大賀郷
    旧臣たちから秀家への仕送り
    秀家の最期と、宇喜多一族のその後
     
    第十二章 関ヶ原体制から徳川公儀の確立へ
    家康の征夷大将軍就任と江戸幕府の成立
    家康や諸大名は秀頼にどう対したか
    秀忠の将軍就任の祝賀セレモニー
    家康による鉱山直轄化と都市部への奉行配置
    京都所司代設置の意味
    諸大名と姻戚関係を結ぶ家康
    関白就任を取り沙汰された秀頼
    秀頼の関白就任を家康は妨害したか
    家康による武家官位の推挙権の独占
    御前帳と国絵図の徴収
    江戸城の天下普請と秀頼の協力
    駿府城の普請と「五百石夫」というシステム
    秀頼に「普請役」を課さなかった家康
    筒井定次の改易と藤堂高虎の入封
    前田茂勝の改易と松平康重の入封
    西国への大名移封による豊臣包囲網の形成
    家康の上洛と後陽成天皇の譲位
    家康への挨拶のため二条城に向かう秀頼
    家康が諸大名に誓約させた三ヵ条の法令
    三ヵ条の法令に唯一誓約しなかった秀頼
    家康・秀頼は対等だったとする「二重公儀体制」説
    二重公儀体制説への批判
    二重公儀体制はいつまで続いたか
    関ヶ原体制の終焉
     
    おわりに
    主要参考文献
  • 内容紹介

    日本史上「最大の合戦」を
    三十年のタイムスパンで読み解く。
    秀吉の晩年から会津征伐、関ヶ原本戦、
    東北・九州の戦い、豊臣家滅亡まで──

    関ヶ原合戦(一六〇〇年)はわずか半日で終結した戦いだが、
    この戦の遠因は、本能寺の変(一五八二年)を経て秀吉時代になって以降の、
    独裁体制のひずみと諸将間の確執、各大名家の家中問題にあった。
    本書では、秀吉の晩年から、五大老五奉行による政権運営時代、
    会津征伐、関ヶ原本戦、東北・九州の戦い、家康による戦後処理、
    豊臣家滅亡による「関ヶ原体制」の終焉(一六一五年)までの実態を、
    良質な一次史料と最新研究を用いて解明。
    後世の編纂物などの二次史料に影響されがちな関ヶ原合戦史を訂正し、
    今語りうる史実の全体像をつまびらかにする。


    ●「家康を筆頭とする五大老は、石田三成ら五奉行より上位」は誤り
    ●直江兼続が家康方に宛てた「直江状」は、完全なる偽文書か
    ●「小山評定はあったのか、なかったのか」を詳細に検討する
    ●関ヶ原開戦時の、井伊直政と松平忠吉の「抜け駆け」の真相
    ●西軍に与した小早川秀秋の心は、以前から家康に向いていた
    ●九州を席巻した黒田如水の驚嘆すべき「広島制圧プラン」
    ●東軍勝利は、豊臣家没落を意味したわけではなかった
  • 著者紹介(「BOOK著者紹介情報」より)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

    渡邊 大門(ワタナベ ダイモン)
    1967年、神奈川県生まれ。歴史学者。関西学院大学文学部史学科日本史学専攻卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
  • 著者について

    渡邊 大門 (ワタナベ ダイモン)
    渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
    1967年、神奈川県生まれ。歴史学者。関西学院大学文学部史学科日本史学専攻卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。著書に『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』、『奪われた「三種の神器」 皇位継承の中世史』(以上、草思社文庫)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)、『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)など。

関ヶ原合戦全史1582-1615 [単行本] の商品スペック

商品仕様
出版社名:草思社
著者名:渡邊 大門(著)
発行年月日:2021/01/28
ISBN-10:4794224931
ISBN-13:9784794224934
判型:A5
発売社名:草思社
対象:一般
発行形態:単行本
内容:日本歴史
言語:日本語
ページ数:511ページ
縦:20cm
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